神楽は元々神を祀るのに奏した舞楽です。茅野ではかつて 地区で神楽や獅子舞をやったと記録されています。
湖東新井には安政7年(1860年)に男児出生祈願として行ったという記録があり、伊勢大神楽の様式の古い獅子舞の道具が残っており、新井太神楽獅子舞保存会が三番叟、
幕の舞、幣の舞、五尺の舞、狂の舞の五つを継承しています。毎年7月の胡桃澤神社例祭で奉納するほか、2月に悪魔っ払いを行います。
他にも江戸時代の獅子頭が残っている地区もあり、現在は22地区で小学生や消防団などの青年組織が悪魔っ払いや神楽の呼び方で無病息災を祈り獅子頭を持って家々を回っています。「悪魔っぱれえ」と声を掛け、各家では祝儀を出し、集まったお金は子どもの小遣いにしたり、飲食に使ったりします。
一旦途絶えた獅子舞を復活させている地区もあります。

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 八ヶ岳山麓の村々の生活の中で、伝統的に行なわれ受け継がれている行事が各地区にあります。
1、全市で地区ごと行われているもの
2、特定の地区に受け継がれているもの
3、職業に関係するもの
の3種に分類されます。

1、全市にわたり行われている行事としては、長持ちや悪魔っ払い、お盆や小正月のどんど焼きがあります。お盆の送り迎えは各家庭ごと行いほぼ流れは共通していますが、それぞれの地区の特長があらわれます。例えば豊平福沢では子どもたちの役目で、区内のお墓山まで行き、松明を灯しお迎えし、16日は送りの松明を持って登りあらかじめ建てた小屋に火を点ける慣しが残っています。また新盆の家で立てられる「高灯籠」は新しい仏様が迷わず帰れる目印の意味合いがあります。近年材料の調達や敷地の都合等で行われる家庭は少なくなってきましたがお盆が近づく光景のひとつです。
どんど焼きは小学生中心に行われる地区が多く、賽の神の塔と呼ばれるやぐらは、松の木を立て松の枝や藁やしめ飾りで作るところは共通ですが、大きさ、形は様々です。

2、特定の地区で受け継がれている行事は、多くが農作物の豊作や無病息災を祈願する意味合いで行われています。
大泉山・小泉山での火とぼしは、周辺の4地区で、小中学生の男子を中心に、最高学年を「親方」として行われます。中でも豊平上古田は市の無形文化財に指定され、時代とともに細かい変化はありますが原型は変わらず伝承されています。また、ちの本町のどぶろく祭のような、神事であると同時に地区の人々の楽しみとなる行事もあります。他にも事八日(湖東新井、湖東中村、湖東笹原、北山湯川、北山糸萱)など各戸で伝承されているものもあります。災害や疫病など見えない不安があり神様が身近だった頃の発祥で現在も厳かに行われています。
ほか、天神講(市内9地区)のように子どもの成長や学問を身につける願いの行事もあります。

3、職業に関係するものでは鍛冶が盛んに行われていた玉川穴山や泉野中道で鍛冶屋の神事「金山講」があります。

地域における伝統行事はわずかな地区で守られ継続されているものもあります。けれども、その多くは現代の生活の中で意味合いは忘れられ、形だけが伝わったり地区行事として行われたりしています。一方、このままでは失われてしまうと危惧し、続けることの大切さを訴え、伝承するための取り組みを行う地区もあります。伝統行事を知り、行い、守ることで地域とのつながりや郷土愛が生まれるでしょう。

村人が役者に、人々の心を癒す娯楽
茅野における芝居や舞台(舞屋)
茅野ではかつて31地区に舞台があり、芝居をやっていました。現在では宮川田沢、泉野槻木、米沢北大塩、米沢塩沢に舞台が残っています。舞台の多くは江戸時代末期に造られました。昭和54年には宮川坂室、宮川田沢、米沢北大塩、米沢塩沢、豊平福沢、泉野槻木、玉川北久保、玉川上北久保、玉川菊沢、湖東山口の10箇所にありましたが公民館建替えに伴い取り壊されました。
泉野槻木の舞台は回り舞台の機構もしっかりしており、宮川田沢の舞台は浄瑠璃語りの入る小部屋が取り付けられている様を今も見ることができます。それらの舞台で行なわれていたのは習い狂言、歌舞伎、浄瑠璃などの村芝居です。

諏訪では明和6年(1769年)に高島藩から村々の名主あてに、狂言をしてはいけない、無届で太神楽をやったら処罰するなどのお触書が出されたそうです。さらに、芝居などで人が集まること、旅回りの役者や浄瑠璃語り、振付師の滞在も禁じていました。これは、芝居に夢中になるあまり、百姓や商売をやめてしまう者が出るなど目に余る状況になったためで、それほど盛んに村人が習い芝居を行っていたことがわかります。
以降、再三、幕府のお触書や藩の禁止令が出されましたが効果はなく、旅役者は活発に訪れ、また、それを歓迎する村々も多くなっていきました。宮川田沢の舞台は天保12年(1841年)、幕府から禁止令が出された年に建立されました。
その翌年には藩政の改革があり、禁止一方だったこれまでより規制は緩くなって、村人による芝居や旅役者による興行などは、奉行所や代官所に申し出れば許されるようになりました。

玉川穴山の村芝居
穴山では嘉永3年(1850年)に舞台が建立され、歌舞伎芝居が盛んに行なわれていました。
明治20年頃が最盛期で、村内に伊藤伝五郎という穴山歌舞伎狂言の総帥がいて連続4日間、一日中興行を行い、見物客は延べ8000人といわれています。保存されている古文書には芝居で貰った花(祝い金)の記録(花控帳)や役者として交代で出演した記録(狂言役者星附け帳)等があります。
明治になってからは衣装(綺羅)や鬘の組合を作って管理し、他村に賃貸する事で収益を得て組合の維持費に当てました。村人が役者になるだけでなく、他所から旅役者を呼んでの興行もあり、時には花火を上げたりする、地域ぐるみの娯楽でした。
公民館の建て替えで舞台はなくなりましたが、現穴山公民館の前に回り舞台土台石が残されています。

語り継がれてきた伝説やいましめ、人のやさしさ
茅野のむかし話
あんころ餅小僧
ちの本町に伝わるむかし話
むかしなあ。永明寺山のふもとに、おもしれえ小僧がいたって。年がら年中、まっぱだかで、ふんどしいっちょうだけ、仕事は、ちっともしなんで、ほっつきあいってたと。
あんころ餅がすきでなあ。腹がへりゃ、「おっかあ、あんころ餅」って、しょっちゅうせがんでたと。(中略・以下概略)
おっかあが死んだ後も、「あんころ餅を食いてえなあ」と言っていたら、夢ん中で「二回だけあんころ餅をやるが、ほれっきりだぞえ。いま、おっかあは天にいるで、ふんどしをなげろや。ほん中へ、いれてやるで」と言った。小僧がふんどしを投げると、あんころ餅がつまった重箱が天から降ってきた。
ある日、諏訪の殿様が村のみまわりにきて、小僧の「あんころ餅食いてえなあ」の声を聞きつけ、「村ん中をさがしてすぐ持ってまいれ。」と命令が下った。小僧は天に向かって「おっかあ、あんころ餅をくりょう。」とふんどしを投げ、降りてきたふんどしの中には重箱が・・・。
「諏訪のむかし話」竹村良信 著  より

茅野市内には他にも多くのむかし話が伝えられており、語り部の活動も盛んです。
茅野市本町出身で小学校の教師だった竹村良信さんは民俗学研究者でもあり、次世代の子どもにお話を伝えたいと地域の民話を記録しました。「諏訪のでんせつ」「諏訪のむかし話」「諏訪の民話」が信濃教育会出版部より発行されています。

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 江戸時代から祭りや行事の時に人々によって唄われたエーヨー節・天屋節・ドッコイサイト節、ダンチョネ節・コチャかまやせぬ節などいくつかの民謡の記録があります。その昔は、田植え唄や糸取り歌などの作業に合わせて唄ったものです。エーヨー節、天屋節は保存会が活動しています。
エーヨー節は江戸時代から唄われており、その歌詞はそのまま次の流行の唄に引き継がれました。明治から大正時代初期には「ドッコイサイト節」が唄われました。「ダンチョネ節」は日露戦争後に兵隊たちが各地に持ち帰った旋律にのせて歌われたもので、元の唄とはやや趣の違うものとして広まり、昭和30年代まで村の「灯篭祭り」や盆踊り、月夜の晩の踊りの会で盛んに唄い踊られました。
娯楽の少なかった時代、村の祭りは男女の交流の場でもありました。娘たちは自分の村で踊り、男衆は他の村に出かけて行って踊り、遠く下諏訪や富士見まで行ったという話もあります。
唄は一人が唄うと、それに返す歌が唄われ、さらに唄問答のように次々に歌われます。即興の唄を上手に歌う人は注目を浴びました。歌い始めの唄、最後に歌われる唄もあり、1000を超えるその歌詞の記録がありますが、7・7・7・5の少ない文字の中にいろんなドラマが垣間見えます。

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 長持ちは、長い竿のついたものをいれる箱とそれを運ぶ行列を指す。古くから現在の宅配便のように荷物を運んだり、祭の時は弁当を入れた運んだともいわれています。現在諏訪地方では祭の時の賑わいを演出するものとして行われています。
茅野では6年に一度の御柱年に各地で行われる小宮祭(諏訪大社の末社など、各地区にある大小のお宮で行う御柱祭)で多く行なわれるます。各地区ごと若い衆や保存会が、お祝いごとがあった家などに振り込んだりしながら、長持ち唄とともに練り歩きます。
特長のあるものとしては以下のようなものがあります。
金沢宿の「雲助道中長持ち」は、峠を越えて荷物を運んだ「雲助」の動きを表現しています。
北山湯川の歴史は古く、昔は嫁入りの荷物を運んだと云われ、ゆったりとした唄で長持ちが行われます。
茅野上原では長持ちの他梯子乗りも受け継がれています。
中には、御柱祭に関係なく神社の例祭で行っている地区もあります。御柱年だけのところは終わった後でおかめ飾りを競りにかけるなどして手放したりします。
明治頃(またはそれ以前)からずっと受け継がれている地区、一度途絶えたが復活したり、他地区に教わり受け継がれているものもあります。

長持ち唄
長持ち唄には、前唄・甚句・後唄(ハヤシ唄)があります。前唄は準備の唄で、甚句の時に長持ちを揺すりその場で練ります。後唄の「トコドッコイドッコイドッコイショ」のハヤシ詞で長持ちは進みます。鳴りものなどはなく、地域性のあるもの、ユニークなもの、えげつないもの、様々な唄で盛り上げます。


この企画は、平成24年度文化庁「地域の遺産を活かした観光振興・地域活性化事業」補助事業です。

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