八ヶ岳山麓の村々の生活の中で、伝統的に行なわれ受け継がれている行事が各地区にあります。
1、全市で地区ごと行われているもの
2、特定の地区に受け継がれているもの
3、職業に関係するもの
の3種に分類されます。
1、全市にわたり行われている行事としては、長持ちや悪魔っ払い、お盆や小正月のどんど焼きがあります。お盆の送り迎えは各家庭ごと行いほぼ流れは共通していますが、それぞれの地区の特長があらわれます。例えば豊平福沢では子どもたちの役目で、区内のお墓山まで行き、松明を灯しお迎えし、16日は送りの松明を持って登りあらかじめ建てた小屋に火を点ける慣しが残っています。また新盆の家で立てられる「高灯籠」は新しい仏様が迷わず帰れる目印の意味合いがあります。近年材料の調達や敷地の都合等で行われる家庭は少なくなってきましたがお盆が近づく光景のひとつです。
どんど焼きは小学生中心に行われる地区が多く、賽の神の塔と呼ばれるやぐらは、松の木を立て松の枝や藁やしめ飾りで作るところは共通ですが、大きさ、形は様々です。
2、特定の地区で受け継がれている行事は、多くが農作物の豊作や無病息災を祈願する意味合いで行われています。
大泉山・小泉山での火とぼしは、周辺の4地区で、小中学生の男子を中心に、最高学年を「親方」として行われます。中でも豊平上古田は市の無形文化財に指定され、時代とともに細かい変化はありますが原型は変わらず伝承されています。また、ちの本町のどぶろく祭のような、神事であると同時に地区の人々の楽しみとなる行事もあります。他にも事八日(湖東新井、湖東中村、湖東笹原、北山湯川、北山糸萱)など各戸で伝承されているものもあります。災害や疫病など見えない不安があり神様が身近だった頃の発祥で現在も厳かに行われています。
ほか、天神講(市内9地区)のように子どもの成長や学問を身につける願いの行事もあります。
3、職業に関係するものでは鍛冶が盛んに行われていた玉川穴山や泉野中道で鍛冶屋の神事「金山講」があります。
地域における伝統行事はわずかな地区で守られ継続されているものもあります。けれども、その多くは現代の生活の中で意味合いは忘れられ、形だけが伝わったり地区行事として行われたりしています。一方、このままでは失われてしまうと危惧し、続けることの大切さを訴え、伝承するための取り組みを行う地区もあります。伝統行事を知り、行い、守ることで地域とのつながりや郷土愛が生まれるでしょう。
村人が役者に、人々の心を癒す娯楽
茅野における芝居や舞台(舞屋)
茅野ではかつて31地区に舞台があり、芝居をやっていました。現在では宮川田沢、泉野槻木、米沢北大塩、米沢塩沢に舞台が残っています。舞台の多くは江戸時代末期に造られました。昭和54年には宮川坂室、宮川田沢、米沢北大塩、米沢塩沢、豊平福沢、泉野槻木、玉川北久保、玉川上北久保、玉川菊沢、湖東山口の10箇所にありましたが公民館建替えに伴い取り壊されました。
泉野槻木の舞台は回り舞台の機構もしっかりしており、宮川田沢の舞台は浄瑠璃語りの入る小部屋が取り付けられている様を今も見ることができます。それらの舞台で行なわれていたのは習い狂言、歌舞伎、浄瑠璃などの村芝居です。
諏訪では明和6年(1769年)に高島藩から村々の名主あてに、狂言をしてはいけない、無届で太神楽をやったら処罰するなどのお触書が出されたそうです。さらに、芝居などで人が集まること、旅回りの役者や浄瑠璃語り、振付師の滞在も禁じていました。これは、芝居に夢中になるあまり、百姓や商売をやめてしまう者が出るなど目に余る状況になったためで、それほど盛んに村人が習い芝居を行っていたことがわかります。
以降、再三、幕府のお触書や藩の禁止令が出されましたが効果はなく、旅役者は活発に訪れ、また、それを歓迎する村々も多くなっていきました。宮川田沢の舞台は天保12年(1841年)、幕府から禁止令が出された年に建立されました。
その翌年には藩政の改革があり、禁止一方だったこれまでより規制は緩くなって、村人による芝居や旅役者による興行などは、奉行所や代官所に申し出れば許されるようになりました。
玉川穴山の村芝居
穴山では嘉永3年(1850年)に舞台が建立され、歌舞伎芝居が盛んに行なわれていました。
明治20年頃が最盛期で、村内に伊藤伝五郎という穴山歌舞伎狂言の総帥がいて連続4日間、一日中興行を行い、見物客は延べ8000人といわれています。保存されている古文書には芝居で貰った花(祝い金)の記録(花控帳)や役者として交代で出演した記録(狂言役者星附け帳)等があります。
明治になってからは衣装(綺羅)や鬘の組合を作って管理し、他村に賃貸する事で収益を得て組合の維持費に当てました。村人が役者になるだけでなく、他所から旅役者を呼んでの興行もあり、時には花火を上げたりする、地域ぐるみの娯楽でした。
公民館の建て替えで舞台はなくなりましたが、現穴山公民館の前に回り舞台土台石が残されています。
語り継がれてきた伝説やいましめ、人のやさしさ
茅野のむかし話
あんころ餅小僧
ちの本町に伝わるむかし話
むかしなあ。永明寺山のふもとに、おもしれえ小僧がいたって。年がら年中、まっぱだかで、ふんどしいっちょうだけ、仕事は、ちっともしなんで、ほっつきあいってたと。
あんころ餅がすきでなあ。腹がへりゃ、「おっかあ、あんころ餅」って、しょっちゅうせがんでたと。(中略・以下概略)
おっかあが死んだ後も、「あんころ餅を食いてえなあ」と言っていたら、夢ん中で「二回だけあんころ餅をやるが、ほれっきりだぞえ。いま、おっかあは天にいるで、ふんどしをなげろや。ほん中へ、いれてやるで」と言った。小僧がふんどしを投げると、あんころ餅がつまった重箱が天から降ってきた。
ある日、諏訪の殿様が村のみまわりにきて、小僧の「あんころ餅食いてえなあ」の声を聞きつけ、「村ん中をさがしてすぐ持ってまいれ。」と命令が下った。小僧は天に向かって「おっかあ、あんころ餅をくりょう。」とふんどしを投げ、降りてきたふんどしの中には重箱が・・・。
「諏訪のむかし話」竹村良信 著 より
茅野市内には他にも多くのむかし話が伝えられており、語り部の活動も盛んです。
茅野市本町出身で小学校の教師だった竹村良信さんは民俗学研究者でもあり、次世代の子どもにお話を伝えたいと地域の民話を記録しました。「諏訪のでんせつ」「諏訪のむかし話」「諏訪の民話」が信濃教育会出版部より発行されています。
御座石神社の境内に山から切り出した松の木を立て、その周りに正月飾りなどを積み上げてある。だるまは 横の石燈籠の前に並べて置いている。
午後六時に点火、雪が舞う中で火が広がっていく。火が回るのにかなり時間がかかるが、三々五々、繭玉を持った人々が集まってくる。小学生の子どもたちが「お賽銭をお願いします」と言いながら歩き回っている。
社殿横に高...
公民館などの場所で行なう所は少ない様子。昔からの辻が、車の通行が多くなり危険なので、田んぼの中で行なっている所もある。区内で一ヶ所ではなく、二ヶ所から四ヶ所という所もあり、大火を焚く所は少なくなっているという。
正月飾りが少なくなっていることも理由の一つと思われ、飾り物のプラスティックをはずしたり、みかんは燃えないからと敬遠されることも理...
一月十四日から十六日までを、大正月に対して小正月と言う。古くは女性がゆっくりと出来るようにと、女正月とも言われた
餅をついて神様に供え、家族そろって祝う。小正月に向けて山からノリデの木を採って来て、ホンダレサマを作り豊作を祈る。
木の枝を俵や稲穂に見立てて切って作る。細い木を組み合わせて稲の花を作ることもある。 ノリデの木で刀を作ったり、...
月の八日を特別な日として祭ることは幾つか例があるが、この地域で特に記載すべきは二月のお事八日と、十二月八日の針供養(事納め)である。他にも四月八日のお釈迦様の花祭が、寺で行なわれる。又、霜月八日の「鍛冶屋のりんぼう」というのがあるが、現在では一般には殆ど知られていない。
二月八日の事八日は、村の辻にある道祖神にお餅を供える祭。
朝早く...
新しい仏さまにとって、初めての盆が「新盆」である。新盆の家では燈籠をより高く掲げ、お墓のあるところに向けて立てることで、初めて家に戻る新仏が迷わずに来られるように高燈籠を作って立てる。さわらや松等の長さ七、八メートル、太さ十センチメートル前後の木の先端の枝葉を残して枝を払い、皮をむいた竿の上部に横に棒を渡し、竿の先と横棒の両端を縄で結び、...
古くは七月に入ると踊りを始めたところもあるようだが、かつてお盆中は、到る所のお寺や辻などの広場で盆踊りを行なっていた。昔の盆踊りは音頭を採る人がいたわけではなく、集まれば誰となく唄い出し、その唄に他の人が返すというように唄い、掛け声の部分を他の踊り手が声を出していた。明治まではエーヨー節(当時は諏訪節とも呼び、エーヨー、ヨイソレと言う人も...
【八月十三日(日)】
迎え火をたいて先祖を呼ぶのは以前は子どもの役割だった所もある。また、お墓に行かずに墓地につながる道沿いの川端にお迎えするところもある。また以前は仏様をお連れするのに墓の前で仏様を背負うような真似をして家まで背負ってくるという事もやっていた。
【八月十六日(火)】
薄暗くなるのを待ち、松明に点火、列になって松明をかざ...
八月十三日から十六日までのお盆の期間、先祖を奉る盆棚を普段の仏壇の前に作る。
組み立て式の特製の盆棚を置き、カトギやヨシを編んで盆ござをつくり、棚の前に下げる。下げるのは仏様がつかまって上るためだという。仏壇の中の繰り出し位牌を出して盆棚の奥に飾る。桔梗、女郎花、ミソハギなどの盆花を飾り、畑で採れた野菜や果物、菓子、精進揚げ、寿司などの盆...
農閑期、村の若い衆が五、六人で穴倉と呼ばれる小屋を建ててそこで共同作業をした。
上槻木に冬場の穴倉があったが、火事になり再建された。藁細工、注連縄、門松、布草履、かごなどを囲炉裏の回りで作っている。外から声をかけると「入っとくれ」「どうぞ」と言ってくれる。来ている方は「家に一人でいるより、ここに来ると話が出来ていい」と話す。今は元気な高齢...
江戸時代から祭りや行事の時に人々によって唄われたエーヨー節・天屋節・ドッコイサイト節、ダンチョネ節・コチャかまやせぬ節などいくつかの民謡の記録があります。その昔は、田植え唄や糸取り歌などの作業に合わせて唄ったものです。エーヨー節、天屋節は保存会が活動しています。
エーヨー節は江戸時代から唄われており、その歌詞はそのまま次の流行の唄に引き継がれました。明治から大正時代初期には「ドッコイサイト節」が唄われました。「ダンチョネ節」は日露戦争後に兵隊たちが各地に持ち帰った旋律にのせて歌われたもので、元の唄とはやや趣の違うものとして広まり、昭和30年代まで村の「灯篭祭り」や盆踊り、月夜の晩の踊りの会で盛んに唄い踊られました。
娯楽の少なかった時代、村の祭りは男女の交流の場でもありました。娘たちは自分の村で踊り、男衆は他の村に出かけて行って踊り、遠く下諏訪や富士見まで行ったという話もあります。
唄は一人が唄うと、それに返す歌が唄われ、さらに唄問答のように次々に歌われます。即興の唄を上手に歌う人は注目を浴びました。歌い始めの唄、最後に歌われる唄もあり、1000を超えるその歌詞の記録がありますが、7・7・7・5の少ない文字の中にいろんなドラマが垣間見えます。
【対象者】
小川哲男さん(八十三歳)
【内容】
めでた、ドッコイサイト節などの記憶の聞き取り
エーヨー節は繭買いの人たちが歌って広まったのではないか(伊那は糸くり唄と呼ぶ)。
天屋節は臼に入れた天草を搗くときに歌った。餅搗きより少し大きな臼で、四人位で搗いて唄った。
昭和三十四年頃、NHKコンクールに出てドッコイサイトを唄い、二位になっ...
【対象者】
田村春子さん(八十八歳)
【内容】
多世代の住む古家屋の自宅にて、ダンチョネ節ほかの聞き取りを行なった。
※若い頃の話、盆行事、
盆の行事として桔梗、女郎花、お盆花など供え家族の健康を祈った。十三、十六日は提灯を灯してお寺に行く。茄子と胡瓜にトウモロコシの毛をつけて牛馬を作り、その足に、お盆花の茎をさして供える。毎年、百年ぐら...
【対象者】
柳澤忠男さん(八十歳)、柳澤くにゑさん、柳澤きくせさん
【内容】
ダンチョネ節などの聞き取り
・いつから始めましたか。
高等科が下がってから、青年学校の頃。
・いつから、いつぐらいまでやっていましたか。
女は嫁入り前まで。男はもっとやっていたかも。
・どんなときにやっていましたか。
お盆、天神様、燈篭祭六月、お盆は十六日午...
【対象者】
宮坂けさ子さん(七十九歳)篠原智加子さん(八十二歳) 島立たけゑさん(七十六歳)
島立たきさん(七十七歳) 篠原次郎さん(八十一歳)
【内容】
ダンチョネ節などの聞き取り
※ 当時の様子
昔は、村の中の未婚の女性が十六、十七歳から参加した。結婚すると、お姑さんに気を使って、行かなくなったり、周りで見るだけだった。男性は、十六...
【対象者】
伊藤益郎さん(八十三歳)
【内容】
※伊藤さんの居間にて、お話と、ドッコイサイト節を聞く。
「昔、子どものころ、胡桃沢神社や行屋で大人が唄っている声が聞こえた。学校の行き帰りにも耳にしていた。親の若い頃に始まったものかと思う。
昔は村祭や盆踊りでやっていた。盆踊りは芹ヶ沢で八月一八日の朝四時頃、草かりに行く為に泉渋院の横を...
【対象者】
祝い唄めでた/小平丑人さん(八十五歳)、小平惣一さん(七十八歳)
ダンチョネ節/小平昭七さん(七十八歳)、小平志づかさん(八十一歳)
【内容】
小平忠実さん(故人)が、昔めでたを教えていた。
小平庄平さんが『小野子山物語』を自費出版しているが、その中にめでたのことが書かれている。須栗平は、以前は小野子(おのこ)と呼ばれていた...
【対象者】
藤本民謡教室ダンチョネ節保存会 伊藤長利さん(民謡教室秀長会主宰者)(六十五歳)
伊藤丈了さん(七十五歳)、小澤秀寿さん(六十五歳)、伊東保幸さん(七十七歳)、
田中一敏さん(七十一歳)、遠藤誠子さん(四十六歳)、伊東ちず子さん
【内容】
ダンチョネ節 コチャかまやせぬ節などについて
十月に茅野市民館イベントスペースで行な...
【行なった人】
天屋節・エーヨー節保存会
【内容】
保存会による市民芸能祭でのステージ発表(ダンチョネ節 天屋節)を映像で記録
...
【行ない手】
北大塩高齢者クラブ会員約四十名
【内容】
ダンチョネ節盆踊り再現
小原の辻にある金毘羅社に、秋の祭用の灯籠を立ててある。祭の再現で奇形二股大根、瘤つき芋が供えられている。奇形野菜を供えるのは子宝に恵まれるようにと言うことらしい。
赤や青などの着物姿の女性や、青い北大塩の法被姿の人たち、男の人は手拭を頬被りしたり鉢巻きにした...
【調査対象】
柏原高齢者クラブ会長・北澤正直さん
両角とく子さん(八十六歳) 両角 定男さん(八十四歳) 両角 好道さん(八十三歳)
両角 美幸さん(八十一歳) 北沢 一平さん(八十一歳) 両角 克子さん(八十一歳)
両角美恵子さん(七十九歳) 北澤ふじえさん(七十九歳) 北澤えつ子さん(七十九歳)
両角せつ子さん(七十六歳) 北澤けさの...
【内容】
ダンチョネ節・祝い唄
『笹原のあゆみ』に記載された民謡についての解説。
笹原の慰安と娯楽
歌と踊り
慰安と娯楽がなくては、人生は味気ないものになる。笹原は交通が不便で、地域的に恵まれていなかった。ここでの慰安娯楽といえば、第一に歌と踊りを取り上げなくてはならない。
歌の中で最も素朴で調子の良いのは、エーヨー節とその踊りである。歌...
【対象者】
有賀秋男さん(九十六歳)
【内容】
ダンチョネ節など
戦争に行く前の思いのこもった唄の思いを聞く。
市役所に歌詞を展示し、それが新聞記事になったのを見て、電話を頂いたので、訪問して話を伺った。こたつの横に座って、パソコンに映し出される取材映像を食い入るようにご覧になり、懐かしいと云う。昭和十三、四年頃の招集前の、もう帰ってこ...
【対象者】
伊東昭二さん(八十三歳)
【内容】
※ダンチョネ節
サポートCで、ダンチョネについて色々行なっているのを新聞で見た。
高齢者クラブで塩壺の湯(福祉センター)へ行っているが、そこでダンチョネ節を唄っているのを聞いた。自分も若い頃散々やったので懐かしく、早速歌詞をもらってコピーし、中沢の高齢者クラブでも歌うようにした。
※昔の話...
長持ちは、長い竿のついたものをいれる箱とそれを運ぶ行列を指す。古くから現在の宅配便のように荷物を運んだり、祭の時は弁当を入れた運んだともいわれています。現在諏訪地方では祭の時の賑わいを演出するものとして行われています。
茅野では6年に一度の御柱年に各地で行われる小宮祭(諏訪大社の末社など、各地区にある大小のお宮で行う御柱祭)で多く行なわれるます。各地区ごと若い衆や保存会が、お祝いごとがあった家などに振り込んだりしながら、長持ち唄とともに練り歩きます。
特長のあるものとしては以下のようなものがあります。
金沢宿の「雲助道中長持ち」は、峠を越えて荷物を運んだ「雲助」の動きを表現しています。
北山湯川の歴史は古く、昔は嫁入りの荷物を運んだと云われ、ゆったりとした唄で長持ちが行われます。
茅野上原では長持ちの他梯子乗りも受け継がれています。
中には、御柱祭に関係なく神社の例祭で行っている地区もあります。御柱年だけのところは終わった後でおかめ飾りを競りにかけるなどして手放したりします。
明治頃(またはそれ以前)からずっと受け継がれている地区、一度途絶えたが復活したり、他地区に教わり受け継がれているものもあります。
長持ち唄
長持ち唄には、前唄・甚句・後唄(ハヤシ唄)があります。前唄は準備の唄で、甚句の時に長持ちを揺すりその場で練ります。後唄の「トコドッコイドッコイドッコイショ」のハヤシ詞で長持ちは進みます。鳴りものなどはなく、地域性のあるもの、ユニークなもの、えげつないもの、様々な唄で盛り上げます。
両久保杖踊り諏訪大社上社奉納。
愛好会の法被、御柱の格好、地下足袋姿で、本一御柱の前に整列し、一列横並びで、白木の六画の杖を持って踊る。両側に愛好会の旗。
平成四年から御柱愛好会を結成。金沢から長持ちを教えてもらった。うまく音を出せなかったりして、後に杖踊りとなった。
舞台用の長持ち踊りとしても都合が良く、「杜の賑わい」イベントでは諏訪湖...
菊澤公民館広場の入口に長持ちが二棹待機。
長持ちは金沢から教わった。胴着姿が主で、女の着物を着た男が棹の前をかついでいる。
周囲で子どもたちが長持ち歌に合わせてオンべを振っている。
長持は、宝重稲荷社二百十日祭などで毎年行なっている。
...
山神社の小宮祭。夕方、長持ちのおかめを取り付けてもらいに行き、十八時から区長さんの家で振込み、酒などを振る舞われた後、区内を練って歩く。三軒目辺りから暗くなり、提灯をつけて家家を回る。二十一時ころまでに、集落内十一か所を回る。...
長持ちは、昔からあったらしいが、何回も途絶えては再興し、小宮祭に行なわれている。
現在の行ない手は、高校を終えて若い衆組合に入った男性。
柏原神社小宮祭、建て御柱終了後、奉納賑わいとして行なわれた。
柏原神社の急な石の階段を腰が九十度くらい曲がったお年寄りが這うようにして上がっていき御柱を見ていた。この地域の昔か...
御柱街道筋で小宮御柱曳航とは別に、区内振込みが行なわれた。子どもも含め十数名。...
上原地区敬老会を兼ねて、葛井神社小宮祭賑わい奉納が行なわれる。
神社の四隅に本格的な大きさの御柱を立てる作業が行なわれている。
上原のアクアランドに隣接する勤労者福祉センターの体育館には地域の高齢者が招待されて建て御柱を見ている。神社東のグランドでは、区民や曳子が飲食する場を設けられて、歓談している。建て御柱の作業をしている若者衆が長持ち...
仲町の長持ちは、三十年くらい前に駅前から教わった金沢流長持ち。
区内を回った後、仲町区民会館前の道路にて、揃いの紫の法被の大人の長持ち、子どもの長持ちが向かい合って待機。
式典があり、木遣り、太鼓の演奏の後、区民会館に向かって長持ちが振り込まれる。
食べ物や野菜などの屋台がいくつも出されている。
...
酒室神社奉納後、区内振込み。長持ちの長さ九メートル、重さ総重量百キログラム、材質ひのき、長持ちは御柱ごとの振込み、おかめは買っていただく(納める)とのこと。...
朝七時から村内を回り、振込みを行なう。
区の役員、結婚、出産、新築のあった家などを回る。毎年のルートは大体決まっている。午前中区内を回り、午後粟沢観音境内にて振込み終了。
唄、担ぎ手、共に交代で行なっていた。
...
山口地区の十五社上から御柱を引き出す。引き出す前の賑わいつくりとして、女性や子どもたちの踊りがおどられ、その後に長持ち賑わい奉納が行なわれる。その後は御柱の後を付いて行き、大星社で再び行なう。正月に新築の家やその他の祝い事のあった家を回ることもある。
三耕地が一緒のお宮を持っているが、長持ちは、二十五年から三十年位前から、中村地区だけで行...
早朝から区内振込みを三地区でそれぞれ回っている。
夜は「小原のお祭」で、毎年九月十九日の夜、金毘羅社に長持ちの奉納振込みを行なう。
小原の辻には露店が出たが、昔は沿道にもズラッとたくさんの露店が出、踊りも行なわれたとのこと。
...
芹ヶ沢の長持ちは、昭和五十四年、芹ヶ沢区民会館が出来た時、駅前長持ち保存会から教わり、翌年小宮祭に行なって以来、小宮祭に行なっている。
芹ヶ沢公民館前の道路上のほうから、区内の人々により御柱が四本曵航されている。その御柱に沿うように、御柱祭のはっぴ姿で、二棹の長持ちがついて歩き、御柱曵航路から離れて、区内の家々に振り込んでいく。
おかめ ...
飛岡子の神社は、千二百三十五年湯川と柏原に設置された。湯川は山梨、原村を通り柏原を通って丸子方面から善光寺へ抜ける街道であり、宿場として栄えたところ。
長持ちの歴史はかなり古く、昔は嫁入りの荷物を運んでいた。結婚式で花嫁を迎えるときに長持ち唄が歌われたとのことだが、詳細は不明。
十八日に、南之町、西之町、中之町、上之町それぞれの地区で、二...
服装は、腹掛けに白いシャツに短パン、緑色の法被を着て脚絆はピンク。
前唄歌詞、中唄歌詞、後唄歌詞を一つずつ組み合わせを替え唄う。歌詞は唄い手の唄いたいもの。関係者によると、その時々で自分たちが楽しい方法を考える。
長持ちは御柱ごとに新しくする。棹は手作り。使用後は前もって決めてある「振込先」に収める。
...
塩沢の長持ちの起源、由緒は、はっきりしないが、江戸時代から御柱祭の年に続いているらしい。現在も小宮祭(九月、区民祭を兼ねる)の前夜祭と前夜祭の前日に行なっている。
長持ちの棹(さわらの木)の長さ…約八メートル、重さ…八十キログラム位。
前夜祭(二十五日)は公民館に全棹集合。二十四、二十五日とも、役員の家、新築した家、商売の家、祝い事のあっ...
長持ちは金沢流(足を高く上げる)。
一つのおかめのわきに金のオンべ。箱は外側に畳表を張っている。
衣装は、城山のはっぴ(紺地に白で城山の文字)、下は白猿股脚絆に草履。金髪のかつらをつけてスカートの男性や、バニーガールに扮している人もいる。
区内の運動広場横の道路から長持ちが動き始め、区内を回る。
...
金沢流長持ち、伝統的な唄い方を守っている。三十年くらい前から始まったというが、詳細不明。
中大塩の法被、パッチ、地下足袋姿で、神社から出て、一日かけて区内を回る。長持ちを振り込み、祝儀をいただく。唄い手には女性二人も参加している。
御柱祭に際して、沿道を賑わすものに道中長持がある。長尺棹の前寄りに長持を縛り付け、御柱御用・一之宮御用等の...
道中長持ち(雲助)は棹が短く四間七・二メートル。前唄は「めでたなー」などで中の甚句は「おせやなー」などを唄う。
これに比べ宿場長持ちは殿様が見ている所で行われた。棹は六間十・六メートル。唄も長い。皇太子殿下(現天皇陛下)が上諏訪に来てホテルに泊まった時にお見せした。
よ組の名前は、江戸時代についた。横内から江戸に出稼ぎに行く人たちが居た。...
御柱曳航に伴って、休憩時に長持ち披露を行なう。長持ちは二棹。...
長持ちは、昔からあったが、途絶えており、昭和四十三年に再興した。
元々横内と駅前は一緒の地区だったので、小宮祭には一緒に長持ちを出す。駅前としては、昔は御柱をやらずに長持ちだけをやっていた時もあったという。
金沢流の雲助長持。丈が長めのそろいの法被姿で行う時と、女装などの仮装姿で行う場合がある。御柱の服装で腹掛けの人や、茅野駅前の古い法被...
中沢の長持ちは、一度絶えて、復活してから三回目になり、駅前から教わったという足を高く上げる様子は金沢式、姿格好は駅前式。
多留姫神社小宮祭の時や、祝い事がある時行なわれる。御柱曳航の後行なうが、区内振り込みの日程は別にある。
長持ち衣装は男性が仮装して、金髪のかつらやドレス姿であったり、七福神の仮装であったり、見ている人を楽しませるもの。...
前回まで小宮祭にはずっと長持ちを出していたが、今回は出さない事になっていた。しかし伝統的な物を無くするのは惜しいという事で、有志の発案により、長持ちを新たに作り行なった。
今回作った長持ち一式(重さは八十キログラム、棹の長さ十メートル位で、長持ちの下には移動の際のキャスターが付いている)、保存会の法被、新調した雲助の衣装で繰り出す。
保存...
御柱奉納 糸萱、芹ヶ沢両地区の長持ち保存会が、蓼科観光協会からの依頼で木戸口神社へ奉納。
木戸口神社の御柱引き付け終了後に、パークホテル上の広場に振り込まれる。
イベント的な取り組み。一連の唄を歌い、所作を行なうだけで終わる。
...
茅野市金沢から昭和六十一年に教わった。道中長持ちで竿は十一メートル。
保存会メンバーは約七十名。そのうち半数が参加。
上里牧場食堂への長持ち振込み、小宮神明社追い上げ祭での長持ち区内振込み。赤岳神社もふくむ。
二棹あり別々に区内を回り、朝六時から夕刻まで掛かる。
...
古くから活動している金沢長持ちは、揃いの胴着、猿股、脚絆、藁草履の出で立ち。
国道沿いの家を周り、金鶏の湯付近から再び国道沿いの家一軒ごと、丁寧に振り込んでいく。各家では、総出で迎えている。
宮坂今朝勝さん(七十五歳、六十年間長持ち唄を唄ってきた)によると、長持ちは江戸時代、金沢宿から杖突峠を越えて荷物を運んだ長持ちが起源で、山道を移動す...
長持ち唄について聞き取り
「伊藤コウジュウさんに教わった。伊藤さんは、茅野市金沢から宮川に養子に来た人。四十八年ころ宮川で唄っていた。
兄(浜シゲヨシ)の同級生(吉山ヤスユキ)が若者頭でその人から誘われた。
小学校一年ころから木遣りをやった。長持ちは聞きまねで覚えた。
神宮寺からきた今井さんは昔の装束で唄っていた。金沢と神宮寺は同じ歌い方...
神楽は元々神を祀るのに奏した舞楽です。茅野ではかつて 地区で神楽や獅子舞をやったと記録されています。
湖東新井には安政7年(1860年)に男児出生祈願として行ったという記録があり、伊勢大神楽の様式の古い獅子舞の道具が残っており、新井太神楽獅子舞保存会が三番叟、
幕の舞、幣の舞、五尺の舞、狂の舞の五つを継承しています。毎年7月の胡桃澤神社例祭で奉納するほか、2月に悪魔っ払いを行います。
他にも江戸時代の獅子頭が残っている地区もあり、現在は22地区で小学生や消防団などの青年組織が悪魔っ払いや神楽の呼び方で無病息災を祈り獅子頭を持って家々を回っています。「悪魔っぱれえ」と声を掛け、各家では祝儀を出し、集まったお金は子どもの小遣いにしたり、飲食に使ったりします。
一旦途絶えた獅子舞を復活させている地区もあります。
午前七時四十分 子ども十二人、PTA役員五人が集合。
埴原田下の約三十戸を、獅子頭、御幣、鈴を持って回る。玄関で「あくまっぱらいにきました」と声をかけ鈴と御幣を振る。希望する家には中に入り、家の中を一巡したり頭を噛んだりする。現在の神楽は二代目で、以前のものは紫雲寺に保管してある。
今年は五年生が親方になり、昨年の記憶をたどって行なう。区...
* 福沢
地区の子ども会が、二手に分かれて地区内を回り、悪魔払いを行なう。PTAの役員がついて、留守家庭以外は全部の家に立ち寄る。
福沢地区は上に約六十軒、下に約七十軒の家があり、三十人の小学生が二手に分かれる。
終わった後 古い公民館でお昼やお菓子をもらって遊ぶ。
* 鋳物師屋
若者組と子ども会が一緒に取り組んでいる。古い道具を使っ...
伊藤さんは、玉川穴山付近の歴史など調べている方なので、話を聞きに行った。
すでに無くなっている穴山の舞台のことを伺う。
芝居で使った衣装などが穴山の田中善一さん(塗師)、妻あやめさんにより発見され、獅子舞の道具、一式管理していた。現在は公民館で管理しているとのこと。
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一月九日にどんど焼きを行ない、十日に悪魔っ払いを行なった。
四組に分かれて区内を回るが、獅子は二面あり、太鼓を鳴らして家々を回る。頼岳寺より上の地区、線路上の地区は 獅子を持ち、太鼓をたたいて各家を訪れる。
線路下の二組は面を付け、鈴やご幣を持って回る。それぞれ、やり方が違い、
「悪魔っ払い、お祝いなして」と言って回る組や、「福舞い込め、...
本町の悪魔払いは、「お神楽」と呼び、小正月のどんど焼きの次の日に行なうが、古い記録が無く、いつから始まったか、はっきりしないという。もともと宮中で神を祭るのに奏した舞楽で、伊勢大神宮で行なわれるものを太神楽・大大神楽という。これが獅子舞と一緒になって、五穀豊穣と、悪魔を払う行事となり、太神楽あるいは悪魔払いといわれるようになった。昔は本町...
山田区の約百五十戸を、太鼓が先導してふれあるき、後に獅子と御幣が続く。今は特に服装は決めていないが法被や胴衣姿の人もいる。昔は羽織袴や御柱の胴衣を身に着けた。獅子頭は被らず脇に抱え、後に二人位が続く。大抵玄関先で御幣を振って終わりとなるが、家の中に招かれた場合は、獅子頭を被り家の中を三回まわる。希望されると頭を噛む。
獅子が来る前から家を...
起源は昔の元服のようなもので、十五歳から若者の仲間入りとして、先輩から後輩に男としてのあり方(飲酒も含めて)を教えた。
現在は、節分の後の日曜日に、厄払い、厄病災難よけ、家内安全、商売繁盛を祈願して
行なっている。三十年位前までは十一日(紀元節)にやると決まっていた。
比較的若い会員が五、六人で回った。
厄年(二十五歳)の人が獅子に入る...
信州玉川太鼓保存会では、毎水曜日子ども達が、玉川小堂見公民館にて練習しており、諏訪湖夏祭(八月四日)、ちのどんばん(八月七日)などにも出演した。
茅野市民館主催寒天寄席でのロビー賑わいに出演。
子どもの太鼓の演奏に合わせて、子ども獅子二つが所作を行なう。終ったあと、餅を撒きながら観客の頭をかじる。
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十人くらいが新井公民館に集まって、清めの酒を酌み交わした後、胡桃沢神社庭で奉納。 山の神にも奉納した後、区内を巡回。
各家の前で、太鼓と笛の演奏に合わせて幣の舞を舞う。太鼓の担当が唄を唄うが、家内繁昌の言葉が入る物や「富士の裾野に」と唄うものがある。
新井道祖神の前でも舞を舞う。夜は皆で集まって宴会を行なう。
この地域で獅子舞がはじまっ...
長持ちの振込みの後、同じ人たちが行なっている。
決まった所作があるわけではなく、乱打する太鼓の音に合わせて二人の男が獅子に入り動き回る。子どもたちが取り囲んでからかうので、獅子が脅すように子どもに挑んでいく。
菊澤には古い獅子と太鼓が保存されていた(笛はない)。
区の役員や神主さんによると、詳しいことは不明だが、道具から見て江戸時代のもの...
この企画は、平成24年度文化庁「地域の遺産を活かした観光振興・地域活性化事業」補助事業です。